1996年、地下鉄サリン事件の記憶も新しい頃、男は一冊の書籍に出会う。
「サハラに死す 上温湯隆の一生」 講談社文庫
若いラクダと共にサハラ砂漠の単独縦断に挑戦した「タカシ」という二十歳そこそこの日本人青年が、志半ばで倒れ力尽きた、という実話。
後日砂漠の中央付近で遺体と共に発見されたその青年タカシの実際の旅日記をもとに編さんされた、リアルな冒険と絶望という衝撃的なノンフィクション作品である。
壮絶な失敗に終わった青年タカシのその挑戦物語を読み、激しく感銘を受けた男はある日、19歳になったばかりの別居の息子T郎を呼び出し伝えた。
「お前も行ってこい」
高校卒業後、ひたすら東京でアルバイトに明け暮れていた息子T郎は、人生の明確な目標など持ち合わせていなかったところである。旅行など別に好きでもないが、19歳あたりのこの時期、そうした冒険も一度くらいなら面白いと思った。
ただしひと言、「それはたぶん俺も死ぬので、もう少しゆるい旅にしよう。」
1996年9月末
父親との作戦会議の結果だいぶ“ゆるく”なったタイへ、何も考えずに片道切符で渡航して一か月ほど経ったその頃、T郎はタイ東北部「コーンケーン」の町外れにある薄暗い安宿にいた。
砂漠の縦断、のような立派な挑戦もなく、目的もゴールも何も決まっていない、「何かを感じてこい」といった極めてあいまいな使命を言い渡され先月、8月の末に人生初の飛行機に乗ってから、もうずいぶん時間が経った気がする。
高校在学中からのアルバイトで稼いだ100万円ほどの金が尽きるまで、帰国してはならないという、流刑。しかも自腹。その金額が尽きるのに、安宿を渡り歩いて1年間くらいの計算だ。
タイ国政府観光庁のWebサイト(現代)「コーンケーン情報ページ」によると

とのことであるが、当時はそうした情報も何一つ知らず、ド田舎で普通に過ごす、というミッションを自分に課してのことだった。
まだまだインターネットも普及しておらず、携帯電話さえろくに見かけなかった時代。同級生の友人の中にはポケベルやPHSを持つ者がポツポツといた程度で、「手紙」以外には日本との連絡手段も無いような状況だった。
薄暗い安宿には他に旅行客もおらず、ある朝目覚めると、雨季だからか洪水だからか、とにかく部屋の中が膝まで浸水しているという、そんなコーンケーンだった。
宿の周辺は経済的にも精神的にも貧しい低層の現地人が暮らすスラム街のようであり、できないタイ語で勇気を出して話し掛けても、追い払われるか無視されるか「お前の時計をくれ」「金を恵んでくれ」程度の事しか言われなかった。
ひと月前、何も知らず初めて乗った飛行機からバンコクのドンムアン空港に降り立った頃は、現地で出会った日本人旅行者たちが周囲におり、バックパッカーの欧米人も多くおり、英語はカラキシながらも賑わいと旅行者同士の交流でそれなりに楽しく過ごしていた。
しかし少し慣れてきたところで、背負った謎の使命を想った結果、楽しい繁華街を離れて「タイ人しかいないヘンピな田舎に暮らしてみる」という独り寡黙に考案した実験をまた独り寡黙に試みている最中なのだった。
ところがこれが寂しいわ、心細いわ、喋れないわ、味方が誰もいないわ、奇異の目に晒され指さされて意味不明に笑われるわ、話し掛けてくれたと思えば金の無心だったりして悲しいやら不安やら腹立たしいやら、アウトプットを絶たれてネガティブなインプットの洪水に晒されるとヒトはこうなるのかという、ストレスで体中の毛が抜けてしまいそうなほどのアウェイの極み。
楽しい発見があっても、嬉しいことや悲しいことや腹立たしいことがあっても、誰にも、どうにも伝え共有する事ができない。リアルなコミュニケーションの矛先が無いということがどれほど苦しいことか、思い知らされる。自分には、何もない。何をすれば、何をみつけられるのか。明日何をすれば、自分のいる意味が生まれるのか。そんな気持ちで手紙か、日記に延々と文字を殴りつける他なかった。
特段現地の友人を作る事もできず、明日やるべき事も見出せず、自分の存在意義に疑問を持ち始め、周辺の現地人にも負の感情が募り、人恋しさ、コミュニケーションへの渇望がピークに達した頃、「国際公衆電話」というものが目に入った。

バンコクの時から度々街角で目にしていたもので、このコーンケーンのような田舎でも点々と見掛けるものの、利用しているひとの姿は見たことが無い。
「あれを使えば日本の知人と話せるのではないか?」日本語で誰か知り合いと話す、ただそれだけが、素晴らしい発明のような、唯一の希望、一縷のクモの糸、起死回生の大きな救いになる気がして、誰も使わないその国際公衆電話がまぶしく光って見えたものである。
その時から「アレで日本の誰かに電話する」というのがコーンケーンにおける最大のミッションとなり(ヘンピな田舎に孤独を求めて移動してきたのに大変矛盾しているが)、胸躍るような気持ちで朝からその方法を探した。
どうやら専用の、国際テレフォンカードというものを入手する必要があるらしい。

これだけ点々とこの町にも国際公衆電話の機械が設置されているのだから、その専用カードとやらもそこらへんで販売しているに違いない。
と思ったのが甘かった。
「国際テレフォンカードはどこにありますか」
これだけのタイ語を辞書を見て当てずっぽうにまず覚え、わずかな繁華街であるメインストリートの雑貨屋、スーパー、コンビニその他ほぼ全ての店舗を訪ねて回ったが、どこも無いの一点張り。手に入らない。
言葉が通じていないのか、面倒だと思うのか、反応はすべからく「わからんからアッチ行け」とか、異国の人間に驚いて逃走するか、「アッチだよ」と当てずっぽうに指さして立ち去るかであり、言われるままにアッチへ行ってみても無論、テレフォンカードの気配などはまるで無い。
さほど人の多い町でもなかった印象だが、こちらも意地になって、ミッションですから、町のかなりの範囲を歩き回り、道行く人にもおよそ全て話し掛け、大概逃げられ、大概適当にあしらわれ、出会った犬や猫にも話し掛ける勢いで、犬や猫にも逃げられ、気が付けば同じ人にまた話しかけたりしていた。
「いったいテレフォンカードはどこにあるんだ!!」
くじけそうになりながらも、ついに朝からそれだけを求め町じゅうを歩き続けたにもかかわらず、健闘空しく陽はとっぷりと暮れ、その日の捜索を打ち切ったのである。
そんなはずはない。そんなはずはない。国際公衆電話は、あちこちにあるのに。一応東北地方では大きめの町のはずなのに。セリフが間違っているのか?セリフが。
翌日、気を取り直して朝から更に範囲を広げ、タクシーの運ちゃん、バスの運ちゃん、郵便局、警察、電話局、駅、何らかのお役所?思いつく限りの公共施設その他を訪ねて回ったが、夕方になっても手に入る様子は無く、ほとんどが知らない、わからない、アッチ行けという調子。今日ダメだったら、この町には無いという事なのかも知れず、当面諦めよう。そう思った矢先。
暑い国の雨季の田舎道なのでそもそも歩行者は少ないのだが、それでも行き交う人に手当たり次第に話しかける中、ただ一人、通りすがりの学生らしき制服姿のお姉さんが、拙い訴えを親身に聞いて、立ち止まって一緒に考えてくれた。しかし「うーん」と考えた末にホニャホニャカーなどとよくわからない事を言ったまま歩き出して行ってしまったので、ああこのお姉さんもまたわからずに去ってしまうのかと佇み見送った、その刹那。
彼女は振り返り、おいでと笑顔での手招き。
あの時の神々しいそのお姿は、今も忘れない。仏の国、微笑みの国、タイである。
その手引きもあって、最後に訪れた何だかわからない施設(何しろ建物の表示も全てタイ語表記)でMay I help you?と聞いてくれたおじさまの、なんと胸ポケットから国際テレフォンカードが5枚も出てきたのにはひっくり返るほど驚いた。
何故なんだコーンケーン!!何故そこなのだ!!あなたは誰なのだ!!
嬉しさと、切なさと、心強さと。ものすごいテンションでその場で3枚も購入した。
貧乏旅行中の当時宿泊していた薄暗くて朝には時折膝まで水に浸かる安宿が1泊100バーツ、食事が一食25バーツ程度で抑えていたところ、1枚250バーツのカードを喜び勇んで3枚750バーツ分も購入したのだから、いかに勢い余って奮発してしまったかがわかる。当時の1バーツは5円ほどだったろうか。
もう恐らくこの時この広いコーンケーンでは、このわからない施設のこのMay I help youのおじさんの胸ポケットにしか、国際テレフォンカードは存在しなかったのだ。と思っている。よくぞ辿り着いた。
宿の近くに戻り、いよいよ誰にも使われたことの無さそうな、国際公衆電話のマシーンと対峙する。これだけは周囲の古びた町並みに馴染まない、近代的なつやつやのデジタルちっくなデザインである。
しかし若さとは皮肉なもので、往々にして愚かさと隣り合わせである。
テレフォンカードを手にした事だけでスッカリ上機嫌になったはずみで、日本の誰かの「ポケベル」に、タイからメッセージを送ったら面白いだろうかとイタズラ心が沸き起こってしまった。
「メッセージを、どうぞ。」の音声ガイダンスを聞き(この日本語で既に癒された)
「ゲ、ン、キ、カ、T、ロウ、ヨリ」と、ろくにやり慣れてもいないポケベルメッセージの入力をポチポチと、モタモタと行う。
「メッセージを、お預かりしました。」ガチャリ。
これだけでなんと、250バーツ分のカード1枚と2枚目の半分が消費された。驚愕の目盛りの減少速度である。執筆現在となっては誰に送ったのかも、無事に届いたのかもわからない。
カードの残りで、今度は父親に掛けてみた。ほとんど一読しただけのノンフィクション書籍の影響と酒の勢いだけで「サハラに死せよ」とばかりに息子をこの試練に放り出した父親に。驚かせてやろうと思った。
しかし音声はノイズ激しく、全く聞き取り難く、会話ができたような、できなかったような。
「えー?もしもしー?聞こえるー?えー?もしもしー?」という調子のまま、またもや恐るべきその速さで、最後のカードの残量も尽き果てた。
渇望と、2日間に渡る奮闘の末、単なる思い付きの割には一週間分の宿泊費にも相当する出費を伴って完遂した「国際公衆電話日本語コミュニケーション作戦」は、せいぜいポケベルの自動ガイダンス音声を聞いた程度、親父の聞き取れない音声をかすかに聞いた程度で幕を閉じた。
宿まで帰る道。中身を瞬時に消耗し、もはや単なる「記念品」となった3枚のカードだけが、ズボンのポケットに残っている。
空しさもあり、しかし不思議と達成感もあり。腑甲斐ないながらも、クサクサしていた心は奮闘の中でいつの間にか元気と潤いをいくらか取り戻していた気がした。
今回はこれいいのだ、と思った。
数日後、食事か郵便局あたりの用事でコーンケーンの町なかをまた日課のごとく歩いていると、変化が起きていた。何しろ人の多くない町であの2日間、ほとんど無差別に、縦横無尽に、手当たり次第無暗やたらと様々な人(や動物)に話し掛けたのである。
なにやらテレフォンカードを探し回っているというヘンな日本人がいたよねとでも噂になったのか、少々有名になったらしい。怪しい者では無いとわかってもらえたのか、あるいは怪しいながらも危険は無さそうとわかってもらえたのか、今度は逆に、あちこちで町の人から話し掛けられた。
「テレフォンカードは、見つかったかい?」
国際公衆電話が繋いだのは遠い日本ではなく、むしろ町の人々との絆だったようである。
西 達郎