【モルドバ共和国】
- 面積: 3.4万㎢(九州島3.7万㎢をやや下回る)
- 人口: 355万人(横浜市372万人よりやや少ない)
- 一人当たり名目GDP: US$4,458(2019年:IMF 欧州最低)
- 宗教: キリスト教正教会等
- 民族: モルドバ人(ルーマニア人)75.1%、ウクライナ人6.6%
ガガウズ人(トルコ系)4.6%、ロシア人4.1%等
大学卒業後、総合商社に入社し、長年海外貿易・海外事業に携わってきた。そんな経験を役立てたいと、定年退職後、ジェトロ専門家として、昨年まで5年間、中小企業の海外進出の支援を行ってきた。そうした支援企業の一社から、東欧のモルドバ共和国に進出したいので支援してもらえないかという相談を受けた。当時は、国名すら知らない東欧の小国であった。
2016年、初めてモルドバを訪れた。当時は、日本とモルドバ、どちらの国にも大使館が開設されていなかった(現在は、両国とも大使館を設置済)。それ以降、今日まで、既に4回ほど、モルドバを訪問している。コロナが無ければ、今年も何回か訪問する予定であった。
モルドバとの関わりが深まるにつれ、歴史に翻弄されたモルドバの国の姿を知るようになった。そして、歴史の傷跡が、現在もこの国が抱えている様々な問題と深くかかわっていることに気づかされるようになった。その一部を紹介したい。
上記地図に記されたモルドバ国旗(上)とルーマニア国旗(下)をご覧いただきたい。モルドバの国旗は、ルーマニアの三色旗と同じ色の並びとなっている。違いは、モルドバの国旗には、十字架を咥えた鷲(ラテン人を象徴)が描かれていることだけである。また、モルドバの国歌は「私たちの言語」という、やや変わったタイトルとなっている。「私たちの言語は宝物 海の深みに埋もれている 宝石の鎖は 古の地に散らばっていたのだ 私たちの言語は燃える炎 全国の中から突然と それは死の眠りから目覚めたのだ おとぎ話の英雄のように」
モルドバは、もともとルーマニア東端の一地方であった。そして、このことが、歴史に翻弄される宿命を負わされることとなる。戦争の際、戦後処理の領土割譲候補として、端に位置する、この地が利用されるという悲劇を生んでしまうのであった。
1806年の露土戦争では、ロシアがこの地を占領、その後百年間ベッサラビアと称されるようになる。ロシア人、ウクライナ人が入植し、この地のロシア化が進められる。学校・教会でのルーマニア語使用は禁止となる。このベッサラビアが、今日のモルドバ共和国の原形となる。
1917年のロシア革命・帝国崩壊を機に、ベッサラビアは独立し、ルーマニアとの統一を実現する。先ほどのモルドバの国歌「私たちの言語」は、この時、作詞されたものである。ルーマニア語を話すことができることへの思いが伝わってくる。
モルドバを訪問すると、よく、モルドバ人から家に招待される。毎週末になると、家族が集まり、庭のテーブルで食事をしているという。そこに来てくれというのだ。モルドバの家庭料理を楽しんでいたある時、庭に仕切られた壁に、左のような一枚の古ぼけた写真が飾ってあるのに気が付いた。1918年のルーマニアとベッサラビアの統合の投票が行われた時の国会議員の写真であった。「私たちの言語」が作詞された時代である。この写真のことを尋ねると、このモルドバ家族は、この写真の意味するところを、熱く語りだした。そして、モルドバがルーマニアと再び統合される日が来ることを、願っていると強い口調で、迫ってくるのであった。
モルドバは、その後も、歴史に翻弄され続ける。第二次世界大戦のとき、ルーマニアは、ドイツとともに枢軸国の仲間に入り、ソ連と戦い、そして敗れる。モルドバは再びソ連に割譲されてしまう。モルドバに住む多くのモルドバ人が、シベリアに送られたという。この時、ルーマニア自身も共産主義国家としてワルシャワ条約機構の一員となる。
この時の、戦場の舞台もまた、モルドバだった。50年以上前の学生時代、合唱団の学生指揮者をしていたことがある。その時、演奏会で、ロシア民謡という紹介で「小麦色の娘」という曲を指揮したことがある。後で分かったことだが、この曲は、ロシア民謡などではなく、ソ連とルーマニアの、この時の戦争を歌った、ソビエト歌曲であった。「そよ風朝焼け ゆらぐ若葉よ 小麦色の娘は ぶどうを摘んでいた かいま見る若者 胸ときめかせ 朝の散歩に娘をさそった 朝焼けの川辺に行こう 明けゆく緑の森へ 楓の若葉は風にゆらぐ ふさふさと髪なびかせて 娘はとんでゆく 緑の楓よ深い森よ」 二番の歌詞に、「モルダヴィアパルチザン」という言葉が出てくる。「小麦色の娘」は、ルーマニア・ドイツ軍に抵抗するモルドバのパルチザンであり、娘に誘われた若者もまた、パルチザン部隊に加わり、娘とともに「家を出て勇み行く」「戦いに」という内容であった。
ある時、モルドバの首都キシナウから、ルーマニアのブラショフの企業訪問する機会があった。国境付近が混むから早く出た方がと言われ、夜明け前にキシナウから車で出発したことがあった。途中で、陽が昇り始めた。地平線のかなたまで畑が続く丘陵地帯の先に、太陽が昇り、見事な朝焼けが映し出された。まさに、「小麦色の娘」で描かれた世界だった。このキシナウからルーマニアに向かう線が、第二次大戦の激戦地であったことを後で知るようになる。50年前に、「小麦色の娘」を指揮した、ほろ苦い思い出が蘇ってくる。
時代は進み、ベルリンの壁が崩壊し、1989年のルーマニア革命でチャウシェスク元首が処刑される。そして、その後のソ連崩壊を機に、モルドバは1991年に再び独立するが、依然、独立国家共同体(CIS Commonwealth of Independent States)の一員として、ロシアとのゆるやかな国家連合体が結成される。この独立の際、制定されたのが、前述したモルドバの国旗であり、モルドバの国歌である。この国歌は、歌詞の内容よりも、はるかに力強い曲風となっている。
モルドバは、独立した後も、苦難が続いている。国土の東側、ウクライナとの間の国境沿いの、南北に細長い4千㎢の地域に、ロシア人、ウクライナ人が多く住み、沿ドニエストル共和国を名乗り、現在でも、ロシア軍が駐留し、半独立国となってる。ガガウズ人達も独立の動きを見せたことがあった。
一方、農業が主産業のモルドバでは、国内で労働力を吸収する産業に乏しく、多くの若者たちは、イタリアなどヨーロッパに出稼ぎに出るようになった。既に、その数、100万人以上とも言われている。人口の3割近くが、海外で働いているという勘定である。
今年の11月15日、モルドバで大統領選挙が行われた。親欧米派の推す女性のサンドゥ氏と親ロシア派の現職ドドン氏の一騎打ちとなった。結果、サンドゥ氏がドドン氏に15ポイント差(25万票差)をつけて圧勝した。日経新聞にも写真つきで、大きく報道された。だが、選挙結果をよく見ると、左図の通り、沿ドニエストル(東部)、ガガウズ(南部)地区はドドン氏を支持している。また、北部もドドン氏支持者が多い。モルドバ国内の居住者だけをみると、わずか2ポイントの僅差(3万票弱の差)での勝利であった。
独立したとはいえ、モルドバは、いまでも、ロシアの影響が色濃く残っている。国内居住者の中に、海外に出稼ぎに出られない多くの年老いた農民が占めている。彼らは、「平等だった」古き良き時代へのノスタルジーを抱いているという。彼らが、ドドン氏の支持基盤である。
一方、サンドゥ氏を支持したのは、首都キシナウを中心とする中部であり、さらに、欧州等に出稼ぎに出ている若者達だった。海外での投票者のうち、ドドン氏に投票したのは、わずか18千人。これに対し、サンドゥ氏に投票したのは243千人と、ここで、22万票以上の大差をつけたことが、サンドゥ氏圧勝につながった。ヨーロッパに出稼ぎに出ている若者たちは、ヨーロッパの文化に触れ、インターネット、SNSを通して、母国にいる若者達にも、新しい考え方を吹き込んでいる。彼らは、「欲あり、夢あり、やる気あり」の3Y世代である。堺屋太一がいうところの、日本の「欲ない、夢ない、やる気ない」の「3Yない社会」とは、正反対の世界である。
勝利したサンドゥ氏は、就任後、沿ドニエストルからのロシア軍撤退を要求し始めた。1991年ソ連崩壊時に結成された独立国家共同体(CIS)が、現在揺れ始めている。ベラルーシ、アゼルバイジャンで、新たな動きが出始めた。歴史に翻弄されてきたモルドバもまた、揺らぎ始めるのだろうか。引き続き、モルドバに着目していきたい。
最後にモルドバで発見したことを二つ紹介したい。モルドバのレストランのテーブルの上に、「3アカ、3アホ」と書かれたものが置いてあった。何かと思ったら、ロシア語で「予約席」ということだった。「アカ」でも「アホ」でもなかった。モルドバでは、ルーマニア語とともにロシア語がいたるところで見かけられる。
もう一つの発見。モルドバのトランプには、2~5の札が無い。信じられるものかと、モルドバでトランプを買い求めた。本当に、2~5の札が入っていなかった。トランプは、4種各13枚の計52枚とばかり思っていたが、調べてみると、実は、世界各地でトランプの枚数は様々であることが分かった。イタリアでは、8~10の札がない、スペインでは、10の札がなく、Kingは13でなく、12である。モルドバの、2~5の札がないトランプは、ロシアと同じで、ロシアからモルドバに伝わったと言われる。トランプは、新聞・タバコ等とともにキヨスクで販売されていた。労働者達が、このトランプで賭けをしているのだという。世界は広いと、つくづく感じる。
(岩松廣行)